2016年5月5日(祝)、川和団地藤棚の下で木曜会が開催されました!
「木曜会」は毎月第1木曜日に開催される川和団地の高齢者サロンです。
今回は、川和団地自治会会長・副会長、川和団地シニアクラブ会長、川和地区社協事務局を含め30名弱の出席でした。
300円の会費で料理を持ち寄り昼食会や茶飲み会を実施し、皆さんお互いの親睦を深めています。
通常の開催場所は川和団地集会場です。毎回季節の話題(月々の代表の手塚さんが作成・配布している歳時記による)、テーブルのお花の話題等で盛り上がり、お開きには合唱(このところ”花は咲く”を練習)をしています。

▲今月の「暮らしの歳時記」
今年の藤棚は、5月3日までは「暮らしの歳時記」に掲載されている写真のようでしたが、4日の強い風と雨で残念な状態でした。

この日は、昨日皆さんが新聞紙で折った兜と食事が配膳されていました。
献立は稲荷寿司、焼売、蕗の炊いたもの、若竹煮、豆腐竹輪、野菜(菜っ葉と胡瓜)、あさりのチャウダー、果物、柏餅と秋田名物笹巻(粽)でした。


▼それでは、いただきます。

美味しく頂きました!
今月は「皐月」で、暮らしの歳時記では八十八夜、憲法記念日、みどりの日、子どもの日(端午の節句)、立夏の他に、
川和連合町内会主催の歩け歩け大会、都筑区役所で開催される手芸やコーラスの発表会、山王社のお祭及び川和団地シニアクラブ主催の映画の日、歩けの日、カラオケの日など様々なイベントの説明・確認が行われ、回覧されている内容は熟読下さいとの注意もありました。
話題の中で、こどもの日は端午の節句、男の子の日ですねと確認されましたが、「五月五日の
こどもの日は、国民の祝日に関する法律によると”こどもの人格を重んじ、こどもの幸福を祈るとともに、
母に感謝すること”と定めている」とあり、なんで父に感謝しないのかとの声もあがりました。
また、山王社のお祭は何故12年に1回なのかとの質問に、山王社は猿田彦が祀られており、山王神社(日枝神社)の神のお仕えが猿で、12年ごとの大祭は十二支の申年にするとのことでした。
(これについては下記
のちょっと雑学をご覧ください♪)
最後に恒例の合唱をして(“こいのぼり”と”花は咲く”)、会員の手芸品(冷蔵庫の扉に貼り付ける、帽子をかたどった磁石のカバー)を戴いて解散となりました。


次回の木曜会は6月2日です。また山王社のお祭は5月22日です!
【ちょっと雑学】山王社*1は妙蓮寺の正門から街道に出て市が尾に向って約100m、右側に赤い鳥居がある木造・銅葺きの小さな社です。扉を開くと正面に観音様のお像があり、左右に猿が手をさしのべています。
祭神は猿田彦命*2、2月15日前後の日曜日に世話人によりお神酒祭りが行われています。12年毎の申年には大祭礼を行い開扉されます。
川和町上・下山王原地区の氏神で創立年代は不詳ですが、社殿にある懸仏(径23cm青銅製の鏡で刻印があり延宝6年(1687)11月吉日)に新編武蔵風土記稿の文言「山王社見捨地尋畝川和村の中央にあり」があります。
猿田彦命は記紀(古事記と日本書紀)に記された神話の国の一つの神で、邇邇藝命(ににぎのみこと)が降臨の際に、先頭に立って道案内をした。のちに、伊勢の国五十鈴川上に鎮座されたという神で中世に至り、庚申の碑*3にこの神を祀り、又、道祖神*4と結びつけられました。
*1 日吉大社(ひよしたいしゃ)は、滋賀県大津市にある神社で全国に約2,000社ある日吉・日枝・山王神社の総本社である。猿を神の使いとする。社名の「日吉」はかつて「ひえ」と読んだが、第二次世界大戦後は「ひよし」を正式の読みとしている。日枝の山(ひえのやま)とは後の比叡山のことである。
平安京遷都により、日吉大社が京の鬼門に当たることから、最澄が比叡山上に延暦寺を建立し、比叡山の地主神である日吉大社を、天台宗・延暦寺の守護神として崇敬した。中国の天台宗の本山である天台国清寺で祀られていた山王元弼真君にならって山王権現と呼ばれるようになりました。
埼玉県川越市にある天台宗の寺院である喜多院を円仁(慈覚大師)が天長7年(830)も創建したおりに、その鎮守として日吉大社を勧請したものであるといわれています。東京赤坂の日枝神社は、文明10年(1478)、太田道灌が江戸城を築城する際に、この川越日枝神社から分祀したものです。
日枝神社でよく見かける御猿像は、ご祭神である大山昨神(おおやまくいのかみ)の使いとなっていた猿のことで「猿が去る」ということから「まさる」と呼ばれて信仰されているそうです。 そして、この猿のことを「えん」と呼ぶということから、ご縁の「えん」とかけて、縁結びの神様と呼ばれ信仰されるようになりました。 ご祭神である大山昨神(おおやまくいのかみ)は、酒を造ることが上手な神様と言われています。 伝説ですが、丹塗りの一矢となって川を流れて、その矢を拾った玉依比売命(たまよりひめのみこと)と結ばれたというお話もあり、まさしく縁結びの神としてふさわしいものです。 このことから、日枝神社のお守りの矢も朱色となっており、縁結びの矢としてご利益があるとされているようです。(出典:Wikipedia)
*2 邇邇藝命(ににぎのみこと)は天照大神(あまてらすおおみかみ)授かった三種の神器をたずさえ高天原から地上へと向かう。途中、猿田彦命(さるたひこのかみ)が案内をし、邇邇藝命(ににぎのみこと)は筑紫の日向(ひむか)の日向高千穂に降り立ったという、記紀(古事記と日本書紀)に記された日本神話の天孫降臨(てんそんこうりん)です。
邇邇藝命(ににぎのみこと)が天降りをしようとすると、高天原から葦原の中つ国(今の日本)までを照らす神がいた。その神は国津神(くにつかみ・土着の神(地神))の猿田彦命(さるたひこのかみ)で、天津神(あまつかみ・高天原の神)の御子が天降りすると聞き先導のため迎えに来たそうです。(出典:Wikipedia)
*3庚申の夜には謹慎して眠らずに過ごすという守庚申(しゅこうしん)と呼ばれる行事があり、守庚申は、庚申待(こうしんまち)と名を変え、一般の夜待と同じように会食談義を行って徹宵する風習として伝わりました。やがて、庚申信仰は仏教と結びつきました。仏教と結びついた信仰では、諸仏が本尊視され始めることになり、行いを共にする庚申講が組織され、講の成果として庚申塔が造立されました。また日吉(ひえ)山王信仰とも習合することにより、室町時代の後期から建立が始まる庚申(供養)塔や碑には、申待(さるまち)と記したり、山王の神使である猿(見ざる、聞かざる、言わざる)を描くものが多くなります。(出典:Wikipedia)
*4 道祖神は、厄災の侵入防止や子孫繁栄等を祈願するために村の守り神として主に道の辻に祀られている民間信仰の石仏であり、自然石・五輪塔もしくは石碑・石像等の形状である。関東では文字碑と双体像に大別され、庚申塔・二十三夜塔とともに祀られている場合が多い。初期は神社の末社として祀られる百太夫(ももだゆう)信仰や陰陽石信仰となり、民間信仰の疫病・災害などをもたらす悪神・悪霊が聚落に入るのを防ぐとされる神である岐の神と習合した。さらに、岐の神と同神とされる猿田彦命(さるたひこのかみ)と、その妻といわれる天宇受売命(あめのうすめのみこと)と男女一対の形で習合したり、神仏混合で、地蔵信仰や観音信仰とも習合したりしている。(出典:Wikipedia)
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posted by 都筑区社協 at 18:01
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